書籍

なんしょんな!!香川・PARTT
なんしょんな!!香川・PARTT
「行政の役割」水は誰のものか/人の渡らぬ橋、車の走らぬ道/広い家 他
1,200円(税込み)
有料会員のみ閲覧できます
なんしょんな!!香川・PARTU
なんしょんな!!香川・PARTU
「高齢者対策の処方箋」
1,200円(税込み)
有料会員のみ閲覧できます
なんしょんな!!香川・PARTV
なんしょんな!!香川・PARTV
「教育の危機」学校教育の危機/崩壊する家庭教育/的外れの企業内教育
1,200円+税
有料会員のみ閲覧できます
なんしょんな!!香川・Q&A BOOK
なんしょんな!!香川・Q&A BOOK
「Q&A」行政の役割/水問題/交通問題/時事
800円(税込み)
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKU
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKU
この本は、都村長生氏の政経塾「長生塾」とそのホームページに寄せられた質問に対し、都村氏が答えた内容をまとめたものです
800円+税
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKV
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKV
この本は、当ホームページに寄せられた質問に対し、都村氏が答えた内容をまとめたものです。
100円+税
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKW
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKW
この本は、当ホームページに寄せられた質問(2003年5月〜2007年3月)に対し、都村氏が答えた内容をまとめたものです。
100円+税
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKX
なんしょんな!!香川・Q&A BOOKX
この本は、当ホームページに寄せられた質問(2007年5月〜2008年12月)に対し、都村氏が答えた内容をまとめたものです。
100円+税

長生塾ホームページ終了のお知らせ

なんしょんな Q&A詳細

  • 【220】 科学技術の進歩の理(ことわり)(2011.9.1) (長生塾第1期生)
     初めて質問します、長生塾1年目の卒業生です。私は20年ほど前から地元各界の有志たちと定期的に勉強会(というか意見の飛ばし合いレベルですが)を行っているのですが、長生塾のプロブレムソルビングの考え方に出会って、遅ればせながらそれまでのディスカッションがかなり情緒的、あるいはイデオロギー的なものであったことに気づかされました。それ以来、私たちの勉強会では毎回このQ&Aの内容を題材にして、「論理的思考」と「ファクトベース」を強く意識しながら、地域の中で自分たちがやるべきことと自分たちにできることを考える訓練をするようになってきました。「民主主義は時間がかかる」ということで結果はすぐには出ませんが、みんな確実に今までより「考えようという意識」が高くなってきたと自負(笑)すると共に、毎回論理的な考え方の訓練テーマを与えてくれるこのQ&Aにとても感謝しています。
     さて、今回質問させていただいたのは、私たちの勉強会の中でどうにも収斂しない問題が出てきたからです。それは、原子力の「必要性」と「危険性」の関係についてです。福島原発の事故以来、Q&Aでも原発事故関係の話が何度も出てくるため、私たちも何度もそこで出てきた話を題材にしてディスカッションしているのですが、論理的には原子力の必要性を認めながらも、いつも「しかし原子力は人類を滅ぼす恐れがあり、危険性があまりに大きい」というところで話が行き詰まるのです(今の世論や識者の意見も結局そこで収斂しないのではないでしょうか)。そこはどう考えればいいのか? 我々の頭の中をブレイクスルーするために、都村さんの示唆をぜひ頂きたいと思っています。
  • 賢者は歴史から学ぶ

     福島原発事故以来、日本社会の中に「原子力は人間には制御できない恐ろしいものだ。だから原発は廃止すべきだ」という感情論がますます強くなってきているように感じられます。振り返れば、1963年に東海村で原子力発電が始まって以来、一部で原発反対運動は行われ続けていたものの、大部分の日本人は原子力発電を当然のごとく新しいエネルギー源として受け入れてきました。スリーマイル島やチェルノブイリの事故の時でも、日本ではここまでの脱原発論は起こらなかったのです。ところが、今回の事故で世論はいっぺんに「脱原発」に傾き、代替エネルギーの目途もないのに「原発は全面的に廃止せよ」という声があちこちで挙がる事態となってしまっています。かつて、広島と長崎の原爆の悲劇を短絡的に「核を持たず、作らず、持ち込ませず」という非現実的な非核三原則に結びつけて国益を失い続けてきたのと同じです。このように、世論がいっぺんに極端な「核アレルギー」に傾いてしまうような「何かが起こると極端に“すべて廃止”論に傾く」という風潮は、世界の中でも特に日本人に顕著な特性だと言えます。

     そして、今回の広島と長崎の原爆慰霊祭ではその原爆と原発の2つが重なって、世論の「核アレルギー」はさらに大きなものになってきました。今回の式典では両市長の平和宣言や菅首相のコメントの中の「脱原発」への言及についてマスコミ等で話題になっていたようですが、要するにどの発言も「原子力というものを忌諱する」というメンタリティをさらに強めていることは疑いありません。しかし、私はこうした風潮に対し、非常に違和感を感じています。なぜか? それは、「原子力の否定」という主張が科学や技術の進歩におけるセオリー(道理、公理)を全く無視していると思うからです。

     「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」という言葉があります。すなわち、物事には「普遍の理(ことわり)」とも言うべき、道理、公理というものがあり、それは歴史をロングレンジで俯瞰して見ることにより明らかになるけれども、直近の経験だけに基づいて感覚的に判断していると普遍の理から外れて間違った方向に進んでしまうことが多々ある、という戒めの言葉です。従って、前述の「原爆投下→核を廃絶せよ」「原発事故→原発を廃止せよ」という思考はまさに「直近の経験に基づいて感覚的に突っ走って、科学・技術の進歩の理から外れていっている」という典型的な例だと私は思っています。では、ここでいう科学・技術の進歩における「普遍の理」とは何か?

    科学・技術の進歩における3つの理

     私は科学技術論(?)の専門家でもありませんのであくまでも私見ですが、科学や技術の進歩には3つの「普遍の理」があると考えています。それは、
    (1)一度できあがって普遍化した科学や技術は、もう後戻りはできない。
    (2)科学や技術には、いかなるものにも必ず「光(メリット)」と「陰(デメリット=危険性)」の両面がある。
    (3)しかし、科学や技術の陰の部分には必ず、陰の部分を減らす技術的あるいは政治的な「解」がある。ただし、それでも絶対に陰の部分をゼロにすることはできない。
    というものです。科学や技術の進歩の歴史を改めて俯瞰して見ると、これらの「理」が一貫して貫かれていることがわかります。

     まず(1)の「一度できあがって普遍化した科学や技術は、もう後戻りはできない」という理は、まさに人間の性(さが)から生じる普遍性と言ってもよいでしょう。すなわち、人間というものは根本的に「豊かになりたい」という欲求を持っており、その欲求がある限り、一度手にした「便利なもの」をすべて捨てて“先祖帰り”することはできないものである、という定見です。人類の歴史上、一度世界に定着した“文明の利器”を人類がすべて“なかったもの”として捨て、その結果「科学や技術がさらに発展した」という例は未だかつてないのですから、これは誰もが認めざるを得ない「理」だと思います。

     ちなみに、もし人間が一旦普及した科学や技術をすべて捨ててしまうということがあるとすれば、一つは「別のテクノロジーブレイクスルーが起こり、さらに一段上の技術が出現して今の技術が陳腐化した場合」、もう一つは「人間に欲がなくなった場合」くらいでしょう。前者は言わずもがなですね。後者の「欲がなくなる」というのは、例えば人口が今の10分の1くらいになってそれ以上増えない、という状態を想像すればわかりやすいのではないかと思います。中国があの広大な国土に人口1億人くらいになれば、ずいぶんゆったりした国になり、拡大志向もなくなって、それこそ尖閣諸島なんかどうでもいいという話になるでしょうし、日本の人口が1000万人くらいになれば土地も広々と使え、せせこましい欲もあまりなくなる。そうなれば、“文明の利器”を少し捨ててもいいか・・・というメンタリティが芽生えて来るかもしれません。しかし、現実的には近い将来に人口が10分の1になることなど考えられませんから(現実には世界の人口はどんどん増え続けている!)、人間の欲がなくなることもまずあり得ないでしょう。

     もちろん、例えばモルモン教徒のように宗教上の理由から科学を受け入れず、自動車も電気も使わず近代医療も受けずに生活をしている人たちもいますが、あくまでもそれは一部の特殊な例に過ぎません。また、たとえモルモン教徒だけが科学を全否定してもそのために人類の科学の発展が一時たりとも止まることもなかった・・・これが歴史上の事実でしょう。

     いずれにしろ、人類の性として「一度普及した科学や技術をすべて捨てて(やめて)しまうことは絶対に不可能だ」というのが「普遍の理」であることは間違いないでしょう。ということは、それを前提にしない限り、いかなる議論も空想の域に入ってしまうということになります。現実論と空想論をいくら戦わせても収斂するはずがありません。私は、ご質問の「議論が行き詰まる」大きな原因はそこにあるのだと思いますよ。

     次に、第2の「科学や技術には必ず光と陰の部分がある」ということも、科学や技術を語る上で大前提となる「理」です。この真理を否定する人はまずいないでしょう。例えば、ノーベルが発明したダイナマイトは土木工事等に飛躍的な成果(光)をもたらしたが、同時に人を殺傷する兵器として使われるという「陰」の部分を持っている。ライト兄弟が発明した飛行機は移動手段に大きな「光」をもたらしたが、空から爆弾を落とせるという「陰」を持ち、ついには広島と長崎に原爆を落としてしまった。ドイツ人科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンが開発したロケットは後の宇宙開発等に画期的な成果(光)をもたらしたが、その前にナチスによってロンドンの爆撃(陰)に使われてしまった・・・等々、例示は枚挙にいとまがありません。

     あるいは、遺伝子組み換え技術もそうでしょう。遺伝子組み換え技術は世界の食糧問題を一気に解決する可能性のある大きな「光」です。「人間が遺伝子をいじるなど、神をも恐れぬ行為だ」と言う人がいますが、そもそも動物や植物の進化というものは何万年、何億年をかけて遺伝子が混ざり合って起こってきたものであり、ある種、自然における遺伝子組み替えの産物と言えます。それを人工的に早めたのが近代に入って盛んに行われてきた動植物の人工交配による「品種改良」であり、現在の遺伝子組み換え技術はそのスピードをバクテリア等を使って飛躍的に加速したものなのですから、遺伝子組み換え作物等が危ないと言うなら、古代から進化した現代の食物はすべて危ないことになる、極論すれば、古代植物や古代魚しか食べてはいけないというおかしな話になります。いずれにしろ、気候変動に強い作物や害虫に強い作物、寒冷地でも育つ作物・・・等々、遺伝子組み換え技術がもたらす「光」は計り知れなく大きいものであることは疑いないでしょう。しかし、それほど大きな「光」を持つ技術でも、例えば誰でもその技術を使って恐ろしい細菌兵器を自由に作り出せる等、必ず陰の部分は存在するわけです。

     ところが、「どんな科学技術にも必ず光と陰がある」という理は誰もが納得できる話であるにも拘わらず、実は多くの人がきちんと理解していないとしか思えない側面があります。例えば、科学者や技術者(私もそうですが)という人種は本質的にオプティミストであるため、技術の「光」の部分しか見ようとせずに(技術が悪用されることなど考えもせずに)開発に邁進するという傾向がある。また、技術を推進して票や金を稼ぎたい政治家や権力者も、推進に支持を得たいがために「光」の部分ばかり強調する。一方、技術に感情的、宗教的に反対する人は「光」の部分を無視して「陰」の部分だけを強調し「すべてを廃止せよ」と声を荒げる。つまり、多くの人が光と陰の片方だけを捉えて、「絶対推進」あるいは「全面廃止」といったバランスを欠いた“極論”に走る傾向があるのです。そして、その“極論”のどちらか一方を「民意様」命の考える力のないマスコミが煽り、その結果世論がおかしな方向に傾き、さらに政治がそれに乗っかって国が進むべき方向を誤る・・・そんなことを繰り返してきたのが今の日本でしょう。

     では、こうした科学技術の光と陰の部分について、我々はどうバランスを取ればいいのか? その解は、これも「歴史」が教えてくれています。何も難しいことではありませんよ。すなわち、科学技術の「光」の部分はそれを最大限に、科学技術の「陰」の部分は、それを最小限に抑えるために飽くなき努力を続ける・・・至極当たり前の考え方を貫くことです。そして大切なことは、「陰の部分を最小限に抑えることは技術的に可能であり、また政治的にも可能である」という3つ目の「理」なのです(ただし、全くなくすことはできませんよ)。例えば、ダイナマイトも飛行機もロケットも、そのものの持つ危険性は「技術力」で安全性を高め続けることによって最小化されてきました。また、その使い方による危険性は、各種の規制や国際間協定等による使用制限という「政治力」で最小化されてきました。そして、最小化されたリスクを抱えながらも「光」の部分を最大化し、世界は今日の豊かさを実現してきた。それが、科学や技術の進化とうまく共存してきた人類の智恵なのです。

     いずれにしろ、科学・技術の議論は、その歴史が証明してきたこの3つの「理(ことわり)」を前提として行われるべきだ、そうしない限り、空想論、感情論に陥って決して議論は収斂しない、というのが私の考えです。では、これらの前提に基づいて、焦点の「原子力」という技術の進むべき道を考えてみましょう。

    原子力利用は後戻りできない

     原子力利用は、すでに普遍化した技術として世界に広がっています。例えば「光」の部分では、放射線医療の分野は現代医療の最先端であり(例えばレントゲンがなければ今の医療がどうなるのか考えてみればよいでしょう)、また、すでに原子力発電も、もはや人類には手放すことのできない最先端のエネルギーとなっています。今回の福島原発事故を受けて世界各国で脱原発の世論が起こりましたが、脱原発政策を打ち出したドイツやイタリアでさえフランスの原発エネルギーへの依存を背景にして行われています(Q219参照)。また、中国をはじめとする圧倒的多くの国がこれから原発を増やし、あるいは新たに持ちたいと考えているのも事実です。つまり、科学・技術の理から言えば「もう後には戻れない」技術となっていることは言うまでもありません。

     また、原子力の「陰」の部分である核兵器もすでに公式には8カ国が保有し、これから核兵器を持ちたいという国も後を絶たない。さらに言えば、今は国単位の話ですが、いずれグループ、個人単位で核兵器を保有し始める(例えばテロリストがボストンバッグに入るような核兵器を持ち始める)恐れもあります。何しろ技術的には濃縮ウランさえあれば中学生でも原爆を作ることは可能なのですから。いずれにしろ、こちらももう技術的に後戻りはできないという局面にあることは否定できません。すなわち、日本がいかに「原発廃止」「核兵器廃絶」を唱えようと、あるいは日本だけが原発も核兵器も持たない国になろうと、世界は決して原発を廃止しない、核兵器も手放さない。それが現実だ、というところから議論を始めなければならないのです。

     日本で叫ばれ続けている「非核三原則を守れ」「世界は核兵器を廃絶せよ」等々の声が全く何の具体的な成果もなく今日に至っている理由は、そうならない世界が悪いのではなく、「理に反した不可能なことを唱え続けている」からだ、というのが私の意見です。繰り返しますが、原発も核兵器も絶対になくすことはできません。しかし、技術力と政治力を使ってそのリスク(陰の部分)を最小限にすることはできるのです。すると、我々にとっては非現実的な「廃止、廃絶」をヒステリックに叫ぶのではなく、「どうすれば光の部分を最大化でき、どうすれば陰の部分を最小化できるのか?」を考え出すことが現実的な戦略の出発点となるべきでしょう。それが、科学・技術の歴史が今まで示してきた「理」であり、我々が豊かになるための道なのです。ちなみに、一つの科学技術を廃絶するということは、陰の部分を廃絶すると共に大きな光の部分(豊かさ)も廃絶することになりますよ。これこそ、歴史に学ばず直近の経験から感覚的に動けば「理」が全く見えなくなる、という典型的な例でしょう。

    エネルギー利用はまだ第三世代に入ったばかりだ

     ここで、少し違った視点からエネルギー利用の人類の歴史を見てみましょうか。なぜなら、短視眼的な見方を排除し、歴史から学ぶということがどういうことなのかを皆さんに理解してもらうのに一番役立つと思うからです。これも私見ですが、エネルギー変遷の歴史をロングレンジで見れば、「第一世代のエネルギー」、「第二世代のエネルギー」、「第三世代のエネルギー」の3つに分けられると考えられます。

     まず、第一世代のエネルギーは「火」です。50万年以上前に原人が「火」を使い始めて動物と差別化したのが始まりで、以来、人間は火の恩恵(科学技術の光の部分)を最大限にするために数々の技術を開発し、同時に火の危険性(陰)を技術力や政治力を使って最小限にする努力を続けながら、他の種との差別化に成功し人類に大きな豊かさをもたらせました。また、近代に入ってから開発された火を使って起こした「蒸気」というエネルギーも、第一世代のエネルギーの進化形だと言えます。

     次に、第二世代のエネルギーは「電気」でしょう。18世紀〜19世紀にかけて数々の現象や法則が発見され実用化が始まった電気は、第一世代のエネルギーに比べて飛躍的に利用用途が広く、また画期的に“送りやすい”エネルギーであることから、人類の豊かさを一気に増大させました。もちろん電気にも危険性(陰)はあり、利用当初から電気に関する事故等は数々起こり続けてきましたが、これもまた、そのリスクを技術力や数々の規制等の政治力で最小限にし続けて現在に至っているわけです。

     そして「原子力」が、私に言わせれば「第三世代のエネルギー」だと言えます。原子力は明らかに今までの火および電気とはエネルギー形態が違い、パワーも圧倒的に大きい新世代エネルギーであることは疑いないでしょう。しかし、今の原子力利用の主力を占める原子力発電を例にとって考えればわかるように、我々にはまだ第三世代エネルギーの原子力を直接利用できる技術はなく、仕方なく一度「第二世代エネルギーの電気」の形に変えて使っている。つまり、我々は今、第三世代エネルギーをそのまま使えない科学技術レベルにある、言い換えれば片足を第二世代エネルギーに置いたまま、まだ第三世代エネルギーの入り口に入ったばかりだと言えるのではないでしょうか。今後技術が進めば必ずブレイクスルーが起こって、原子力を第二世代のエネルギー(電気)に転換するというロスなく使える時代が来るでしょう。そうなれば、世界のエネルギー問題はいっぺんに解決するに違いない。そういう可能性を秘めた第三世代エネルギーの入り口に、我々は今いるのです。

     つまり、大きなことを言っても人類発生後50万年間で我々はたった3形態のエネルギーの進化しか成し遂げていない、ということになります。そういう科学技術の長期的歴史の視点を踏まえて今回の原発事故を考えると、少し違った認識が生まれてくるのではないでしょうか。すなわち、エネルギーの新世代に入ろうとしている入り口の段階で「事故が起きたからすべてを廃止すべきだ」と言うのは、例えれば、原人が火を使い始めた時に誰かが火傷をしたのを見て「火を使うことを一切やめてしまおう」と言うのと同じ発想だ、ということです。あるいは人類が電気を発見してその有効利用が始まろうとした時、誰かが感電して気を失ったのを見て「電気は危険だ! 電気の利用は禁止すべきだ!」と言っているようなものではないでしょうか。皆さんがもしタイムマシンに乗ってその当時に行ったとしたら、火を恐れる原人や電気を忌諱する近世人をどう評価されますか?

     「火」も「電気」も、発見当初は人間には制御できない危険性があると思われていたに違いない。科学とか技術というものは、そういうものなのです。しかし、我々人類はそれを技術力と政治力でリスクを最小限にしながら(ただし、そのリスクは絶対になくなることはありませんよ)制御し発展してきたのです。いずれ将来「第四世代のエネルギー」というものが出てくることも考えられます。それは例えばSF映画によく出てくる重力を制御できる技術なのか、また、全く別のコンセプトによるものなのか、現時点では想像もつきませんが、その遠い将来の第四世代エネルギーに向かう前の第三世代の入り口で撤退しなければならないほど、我々人類は愚かで無能なのか? 私はそうは思いませんが、皆さんはいかがでしょうか。

    日本の原子力政策の進むべき道・・・増原発へ

     繰り返しになりますが、原子力利用の政策については、歴史が証明する「科学・技術の進化における理」に則り、まず、「原子力利用は後戻りできない(廃絶できない)」ということを大前提として認識すべきだと思います。世界中の人類が、基本的に「豊かになりたい」という欲求を持っているのです。もちろん、「豊かさを放棄してでも原子力を否定したい」という主義主張を持つことは自由ですが(我々はモルモン教徒の存在を否定するわけではないのです)、それを国策にまで広げるのは「理(ことわり)」に反して多くの国民の豊かさを損なうことになってしまいます。

     加えて、「原子力には光と陰があり、陰は最小化する方法がある」ことをきちんと認識すべきだと思います。例えば今回の原発事故に際し、日本に放射能汚染処理設備がなかったため、フランスから高額で放射性物質除去装置を購入することになりました。皆さんはそれを非常に特殊な高度技術を駆使した日本では作れない装置だと思っているようですが、何のことはない、モレキュラーシーブを使った既存の吸着機器(石油装置産業等でポピュラーに使われている機器)の応用版に過ぎません。あんなもの半年もあれば私にでも設計できるという代物に過ぎない。なぜそんな恥ずかしいことになったのかというと、日本は「原発事故は起こらない」という前提で原発行政を進めてきた、つまり、「民意様」に媚びて、原発の「陰」の部分に目をつぶっていたからです。もし我々国民が光と陰の部分をきちんと認識し、合意していれば、おそらく日本でフランス製よりはるかに優秀な除去装置が開発できており、今頃稼働中のはずでしょう。それより何より、合理的なエマージェンシー体制さえきちんと設計しておけば、今回の事故自体、高い確率で防げたはずなのです(Q204Q205参照)。これが技術や政治の問題でなくて何なのでしょう?

     そして、日本はこの3つの前提の下に、
    (1)原子力の「光」の部分を最大化し、「陰」の部分を最小化するという考え方で取り組むべきだ。
    (2)「光」の部分を最大化するために、原子力利用の研究開発を国を挙げて進め、長期的な成長エンジンとするべきだ。
    (3)同時に、「陰」の部分を最小化するために、技術力と政治力を駆使する、という方向に日本が世界に率先して進むべきだ。
    というのが私の考えです。つまり、「脱原発」ではなく「親原発」「増原発」策をとるべきだ、と申し上げているのです。

     特に、技術立国で生き残るしかない日本こそ、世界の先頭を切って技術開発を進めていくべきです。その中心となるべきは、世界のエネルギー問題を解決するための「原子力」の技術と、世界の食糧問題を解決するための「遺伝子組み換え」の技術だということは何度も申し上げました(Q175参照)。残念ながら今の日本は、最先端の原子力の技術はあるが政治的に「絶対安全」などと言わされているために現実的な安全技術が準備されていない、遺伝子組み換えの技術はあるけれど「遺伝子をいじるなど神をも恐れぬ行為だ」という過剰なアレルギー世論の影響で規制が多すぎて実用化できない・・・等々、陰の部分に怯えるあまり技術がバラバラに分断されて一歩も前に進まない状態にある。そこを打破するためにも、きちんと歴史に学び、ロングレンジで「科学技術の理」を認識する必要があるのです。

     蛇足ながら、私はいつも皆さんと違った「解」を出すことが多いのですが(このご時世に「増原発」などと言っているのは私くらいでしょう)、それは私が“天の邪鬼”だからではありません。好き嫌いやイデオロギー的な主義主張を排除し、ファクトベースで考え、視野を広げ、原理原則に返ったり、あるいは時間軸を変えて考えてみたり・・・と、いろいろな方法を試みながら多面的にイシューを見ているため、違った答えが出てくるのだと思っています。それが「考える」ということであり、プロブレムソルビングの手法なのです。それを一人ずつみんながやっていかない限り世界との競争に勝てず、日本の国は決して良くならないと私は思っています。ご質問をされたこの方は本欄の趣旨をよく理解されて、「考える力」を養うためにとても活用されているようですね。もちろん、私は神様ではないので私の意見がすべて正しい答であるとは申しませんが、皆さんの「考える」ための一つの材料になれば幸いだと考えています。