【Q91】いじめ問題(2006年11月)
いじめ問題がマスコミをにぎわしていますが、多くの論調が何かヒステリックな感じがして少し不快感を持っています。教育問題についての都村さんの考え方はこれまで何度か読ませていただきましたが、昨今のいじめ問題について、改めてお考えをお聞かせください。(高松市・会社員)

【A91】

 「いじめをなくそう」という話がよく出てきますが、私はこういう話はスタートポイントから間違っていると考えています。つまり大前提として、大なり小なりいじめというのはなくならないものであり、いじめがあるのが世の中だと思っているからです。

 人間は誰も一人で生きていくことはできませんから、社会生活を送る限り、必ず何かの組織やグループに属することになります。グループとか組織はそれぞれ何らかの目的を持っているわけですが、その目的に対して合わない人とか、少しパフォーマンスが悪い人はどうしても出てきます。すると、リーダーシップをとる人やメンバーは組織の目的に対してパフォーマンスの悪い人を何らかの形で疎んじることになる。出来のいい者は登用し、出来の悪い者に対しては怒ったり役割を取り上げたりする。それは要するに一種の「いじめ」のようなものですが、会社に限らず社会というのはすべて、そういった何らかのいじめがあるという前提で成り立っているわけです。例えば恋愛一つとってみても、フラれた人はフッた人からある種のいじめを受けたのと同じです。つまり、そんなものをすべてなくしよう、などというのは人間社会自体を否定することと同じであり、あり得ないと知るべきです。

 最近見た中国の映画の中にこんな言葉がありました。「人有る所、恩讐あり。恩讐有る所を浮き世と呼ぶ。すなわち、人これ浮き世なり。どうしてここから逃れられようか」と。人がいる所には必ずもめ事、いじめが起こる。それを世間というのだ。その世間で生きているのだから、誰もそこから逃げることはできないということです。世の中の「恩讐」をなくすることなど、できるわけがない。この前提を踏まえて、今起こっている小中高校の「いじめ」の原因と解決法を探っていきましょう。

根本的原因は、いじめた子供の父親にある

 今の小中高校の「いじめ」は何が問題なのかというと、そうした常に世の中にあるいじめの中でも「陰湿ないじめ」が、子どもたちの間でしかも長期間にわたって続いているということです。昔も当然いじめはどこにでもあったわけですが、それが陰湿に長期にわたって続くようなことはあまりなかった。ではなぜこういうことが起こり始めたのか? その根本的な原因は、いじめる子どもの親にある。それも90%以上父親に原因がある、というのが私の意見です。

 「弱い者をいじめてはいけない」というのは学問の話でも理屈の話でもなく、倫理の話、つまり躾の問題です。なぜか? これは学問ではないから学校(理屈)では教えられません。だって、競争社会というものは弱者から強者が奪うことを前提に成立しているわけですから、根本的に「弱い者をいじめてはいけない」などという理屈は成り立つはずがない! 従って、「弱い者に情けをかけてやれ」「親を敬え」「女性に暴力をふるってはいけない」などという社会を維持していくための倫理則(人としてのあり得べき心情)は、理屈など抜きに強制的に子どもにたたき込むべきものです。弱い者をいじめている子どもを見たら、殴ってでもそれを教え込まないといけない。つまり強制力が必要になる。子どもに対して強制力を持っているのは親ですから、躾をするのは当然家庭の役目です。

 さらに言えば、それは父親の役目です。母親はどうしても感情的になるので、父親が本気で倫理をたたき込むべきなのです。社会とはこういうものであるとか、社会に対してこういう責任を果たさないといけないとかいう社会生活の基本を教えるのは、社会と関わりの多い父親がやるべきことです。そうすると、今の陰湿ないじめの一番大きな原因は、いじめる子の父親が躾を何もやってこなかったことにあるということになりませんか? もしそういう躾を受けた子どもが一人でもいじめる側にいれば、自分自身に恥ずかしくて必ずどこかでストップがかかるはずでしょう。たぶん今はそんな躾をしている家庭は少数派なので、大半のいじめる側の子どもは何の罪悪感もなくいじめをゲーム感覚で続けているのでしょう。だから信じられないほど陰湿化し長期化してしまう。私はこの家庭教育をたたき直さない限り、陰湿ないじめは絶対になくならないと思います。そういう意味で、最近の一連のいじめ報道でいじめた子どもの父親の話が全く出てこないのが不思議でなりません。

学校は勉強をする所だ

 いじめは躾の問題だとすると、「家庭は躾をする所、学校は勉強を教える所」というシンプルな話さえ合意すれば、その解決策もはっきりしてきます。家庭での躾ができていない子が陰湿ないじめを起こすのですから、根本的な責任は家庭にあります。それなら、家庭で基本的な躾ができていない子どもは、父親を呼んで「学校は勉強を教えるところだ。勉強をする子どもの迷惑になるから、躾のできていないあなたの子どもは受け入れられない」と言って退学にすればいい。その権限を学校に与えればいいのではないですか?(「なんしょんな!香川PART3・P92前後参照)社会生活を営んでいく最低限のトレーニング(躾)ができていないのですから、学校生活ができるわけがない! 退学になった子どもは、家庭できちんと躾をやり直してその後復学できるようにすればいい。そうすれば陰湿ないじめはなくなるだろうし、社会生活ができないような子どもが社会に出てくることもなくなると思います。

 もちろん、ちゃんと躾のできる家庭の再構築となると時間がかかる話です。すでにおかしな教育を受けてきた世代が父親と母親として家庭に入っていますから、おそらく一世代か二世代サイクルが回らないと直らないかもしれない。正常化するには数十年かかると思います。その間は何らかの救済措置は必要になるかもしれませんが、いずれにしろそこをたたき直さない限り根本的な解決にはならないと思います。これは親が今まで何十年間も手を抜いてきたツケだと考えるべきです。たとえ何万人退学になる小中学生が出てこようとも、ツケを払うのは手を抜いた親であるべきでしょう。その原則を崩しては何の解決にもならない。

 しかし、現実には見当はずれな責任追及が行われているようです。いじめで自殺した子どもの親が校長を呼んで頭を下げさせたという話もありましたが、お子さんを亡くされたことは非常に気の毒ですが、学校に責任を求めるのはどう考えてもおかしな話です。「学校が悪い!」「いじめに気がつかなかったのか!」と言いますが、まず、学校は学問を教えるところで、躾をするところではない。加えて、いじめはいじめる子どももバカじゃないから、非常に巧妙に、バレないようにやるものです。先生にすぐわかるようないじめは、今問題になっているようないじめではない。従って、学校に「いじめを見つけて何とかしろ」と求めること自体、構造的に無理な話です。

 また、「校長が"いじめはなかった"と嘘をついた」などと言って責められていますが、百歩譲っていじめらしきものが見つかっても、「いじめはなかった」と校長が言うのは組織力学上当たり前です。校長はいわば中間管理職で、上の教育委員会から「いじめがあったと認めるな」と言われれば「なかった」と言うしかない。従って、組織的に校長は隠す、構造的に子どもも隠す。だから文部科学省のいじめの統計もゼロになるわけですが、それは組織の常です。組織的にできないことをいくら責めても、何の根本的な解決にもなりません。より陰湿に水面下で症状が進行するだけだと思います。

 もう一つ言えば、こういう問題の解決を先生に期待することにも無理があると思います。近年の若い先生というのは、ものすごく競争率の高い超難関の教員採用試験を通ってきている。要するに受験勉強だけを一生懸命やってきた「受験の成功者」が先生になっているわけです。ただし、あからさまに言ってしまえば一番優秀なレベルの学生はたいてい教職課程は取らないので、多くは地方国立大学の中レベルの、勉強だけを一生懸命やってきた学生が難関をパスして、エリート中のエリートだと錯覚して先生をやっている。そういうメンタリティの先生に躾を期待すること自体、無理な話です。もちろん中には金八先生みたいな熱血漢がいるかもしれませんが、それは数少ない例外でしょう。

 すなわち、いじめの問題は学校に責任を転嫁してもほとんど意味がない。根本的な責任は、躾を怠ってきた家庭、特に父親の責任だ、というのが私の意見です。しかしいじめた子どもの父親は全く表に出てこないし、問題にもされない。全くおかしな話だとは思いませんか?

「武士道」は日本特有の躾マニュアル

 ここからは余談になりますが、躾について私の感じていることを少しお話ししておきます。最近本のベストセラーなどで「武士道」というのが話題になっていますが、私は武士道というのはある意味、日本特有の躾の集大成だと思っています。武士道というのは中国の儒教に戦国時代の陽明学的な思想の加わった、日本特有の考え方なのです。

 武士道のベースは「国や法律より父母を大切にする」という儒教にあると思うのですが、そこに「主君の対する忠誠」といった陽明学の考え方や、「卑怯を恥とする」「弱きを助けて情けをかける(惻隠之情)」といった日本特有の精神が入ってきて、日本人が社会的にうまく生きていくためのノウハウの集大成のようなところがある。私は日本人の躾について、この武士道の精神を生かせばいいという考えには同感です。私は武士道とは儒教(孔孟の教え)の根本概念にある仁(愛情を人に及ぼすこと)と恕(相手を思いやること)をベースに組み立てられた日本社会特有の躾マニュアルだと解釈しています。ちなみに孔子が出た中国では共産党の政策により、こんな考え方は現在跡形もなく消されています。

 武士道と聞くとすぐに「懐古主義だ」とか「ハラキリだ」とか「軍国主義の復活だ」とか言う人が出てきますが、それはかつて軍部が武士道の都合のいいところだけを利用したことがあったというだけで、全く武士道の本質をわかっていない議論です。戦前に利用して成功したのであれば、それなら現代の問題について、いいものはまた再利用すればいいのです。日本の社会に合った良き倫理感を躾に生かし、もう一度家庭教育を構築し直すべきだと思いますが、いかがでしょう?